「『決断物語』に登場していただけませんか?」
榎本淳子(通称エノジュン)さんに連絡したのは、2021年9月のこと。すぐに、こんな返事が返ってきた。「病気のこと、ちょうど整理したいなと思っていたんです」。
新卒でリクルートの制作会社に入社し、20代を全力で駆け抜けた彼女は、35歳で大きな病気を経験する。それは、それまでの価値観を大きく揺るがす出来事だった。
人の健康に真摯に向き合いたい
現在、エノジュンさんは都内のアルコール・飲料メーカーのグループ企業である健康食品会社でビジネスデザイナーとして働く。
「会社の事業内容は、人が何歳になっても生き生き暮らせるような、プロダクトやサービスの企画・設計をすることです。私はサービス開発を担当しています。今の会社のいいところは、1人1人のインサイト(深層心理)をすごく大事にしているところですね。本当に人生に寄り添おうとしているな、と思えたので、転職を決めました」
2022年の7月に転職したばかり。今回が3社目だ。
「もともと人生において強く実現したいことがあるタイプではないんです。どちらかというと、自分の半径5メートルにいる人たちが幸せであるような状態を作りたいなと思って仕事をしています。顔が見えないすごく遠くの多くの人たちを幸せにすることは難しいかもしれないけれども、顔が見える人たちの幸せな状態を作りたい。その思いは1社目から変わっていません。今の会社も、人が生き生きと暮らすためのサービスを開発しているところが、魅力的だなと思ったんです。より自分が思い描く世界を実現できそうだな、と思ったら挑戦していく。そんな考え方で転職を決めています」
今の仕事を選んだのは、病気を経験したことも大きい。
「人生の中で、自分が時間をかけて取り組むべき問題って何なのかな、とずっと考えていたんですが、自分自身が病気になったことをきっかけに、人の健康にかかわることに真摯に向き合っていきたいと考えるようになりました。病気になったことで取り組んでみたい問題が明確になったんです。今の仕事は、自分の実体験がそのまま生かされていくような感覚があって、これから先、取り組んでいくのが楽しみです」
ライフワークとしては5年前から、北海道音別(おんべつ)町のフキを復活させる活動を支援している。
「音別町の特産品であるフキを使った名産品開発などを通して、地方で暮らす方が自分の町に誇りを持ち、生き生きと暮らせるようなお手伝いができればと思っています。仕事と趣味の中間のような形で、自分の時間を社会的に意味のあることに投資したいと思って始めました。コロナ禍になってからはあまり行けていませんが、今後も長期的にかかわっていけたらと思っています」
簿記の試験に落ち続け、税理士の道を断念
1984年、エノジュンさんは東京都北区で榎本家の長女として生まれた。父親は税理士で、母親は今は働いているが、当時は専業主婦だった。2歳下に弟がいる。
中高一貫の私立の女子校に通った。
「小学生のときはすごく快活で、自分の意見を主張する子どもだったと思います。ただ、中学校以降、周りの女子のパワーがすごすぎて(苦笑)、自分が前に出るよりは、人をサポートする側に回ったほうが心地いいなと思うようになったんです」
とはいえ、中学・高校時代は、学級委員やソフトテニス部の部長を務めた。「リーダータイプというよりは、そういう役回りを頼まれがちなんです」と笑う。
高校3年間、同じクラスだった友人の桃子さんは、エノジュンさんについて、こう語る。
「淳子は昔から1つのことにのめり込むタイプです。高校時代はソフトテニスに熱中していました。すごく印象的だったのが、何かの場面で『私、しっかりしているから大丈夫』って言っていて、高校生なのにすごいな、と思いました。
しっかりしている人は一緒にいて窮屈だったりしますが、淳子はすごく柔らかい。受け止めてくれる母性があるんですよね。自分はしっかりしているけれど、そのしっかりさを相手に求めない。私がしっかりしているからいいよ、と。淳子がイライラしたり怒ったりしているのを私は見たことがないですね。だから一緒にいてすごく居心地がいいんです」
高校を卒業後、立教大学に進んだ。会計学科を選んだのは、父親の税理士事務所を継ぎたいと考えたからだ。
「でも、入学して半年もたたないうちに、自分は本当にセンスがないな、と気づきました。どれくらいセンスがないかというと、簿記3級に、3回落ちたんですよ。そんな人、なかなかいないと思います。たぶん、英検5級に3回落ちるようなものです。
しかも、そそっかしいんですよね。簿記って左手で電卓をたたきながら、右手で回答を記入するんですが、私、試験に電卓を忘れてしまって、常に何千万という単位の計算を筆算するという……周りではちょっとした伝説になっていました(笑)」
税理士の道を諦め、大学時代はマクドナルドでアルバイトに明け暮れた。テレビ局や広告関連の企業を中心に就職活動をして、内定をもらったのが渋谷にあるベンチャー企業と、リクルートの制作部門を担うリクルートメディアコミュニケーションズ(RMC/現リクルート)だった。
「どちらに行くか迷っていたときに、ベンチャー企業の人事担当者に、『うち、すごく社内恋愛が多いからいいよ』って言われたんです。それで一気に興ざめして。恋愛するために会社に入るわけじゃねぇし、なめんな、と思って(笑)、内定を辞退しました」
「暮らす」ように仕事をした
2007年、RMCに入社。13年間、共通して携わったのは、「コミュニケーション設計」だ。
最初はブライダル情報誌『ゼクシィ』の制作ディレクターとして広告制作を担当した。クライアントであるブライダル関連企業の課題を聞き、キャッチコピーを考えライティングをして誌面に落とし込んでいく。
27歳で職場の同僚と結婚、一時は仕事を辞めることも考えた。
「私の母は幼少期は専業主婦でずっとそばにいたのですが、夫の両親は共働き。女性が働くことに夫のほうが推進派だったんです。私が『結婚したら仕事を辞めたいんだけど』と言ったら、『辞めないほうがいいよ』と言われて、『え、そうなの?』と思いながら、わかりました、働きます、とそのまま仕事を続けることにしました」
ブライダル領域の後は、旅行・観光領域の『じゃらん』、住宅領域の『SUUMO(スーモ)』を経て、新規事業開発へとキャリアを切り開いていく。
「広告制作だけでは課題解決ができないと思って、お客様が持っている商品自体を変えていく、あるいは売り方を変えにいくといったことまで踏み込んでいくようになりました。広告の仕事を通じて社会の問題に目を向ける機会が増えたのをきっかけに地方創生の仕事に興味を持ち、その新しい部署ができるなら、マネージャーをやらせてください! と自分から上司に言いに行きました」
任される領域や責任が大きくなればなるほど、仕事が楽しくなった。
「仕事をしているという意識ももちろんあるんですが、暮らすように仕事をしている、という感覚でした。仕事が本当に生活の一部で、人生の一部である。それは一方で、仕事が魅力的であるがゆえに、自分の暮らしをないがしろにしている状態でもあったんですね。そうやって仕事中心の生活をしていたときに、体を壊してしまったんです。
仕事をし過ぎて病気になる場合、心が先に病むパターンと、体が先に悲鳴を上げるパターンとあると思うんですが、私は後者でした。精神的には、すぐへこたれるけど立ち直るのも早く、わりと強いほうだったので、精神が体を凌駕したんだと思います」
およそ半年の壮絶な闘病の末、エノジュンさんは決意する。
「仕事が好きだからこそ、環境を変えよう」
36歳の決断だった。
プロフィール
榎本淳子
アルコール・飲料メーカーグループの健康食品会社 ビジネスデザイナー
1984年、東京・北区生まれ。2007年、リクルートメディアコミュニケーションズ(現リクルート)に入社し、プロモーション設計、新規事業開発に従事。不動産や地方創生領域にて、官公庁や自治体、大手デベロッパー等を担当。当事者や周辺の人たちの生の声を聞く手法を大事に企画し、計3000人以上の声を聞いてきた。35歳のときに膵臓の病気で生死をさまようが、無事復活。病気を機にリクルートを退職し、2020年よりオープンイノベーションサービスWemakeのサービス統括に従事。2022年7月にヘルスケアメーカーに転職し、ビジネスデザイナーとしてサービス開発に携わる。