中川英祐

新型コロナウイルスに罹患し、昏睡状態を経て目覚めたとき、改めてデザイナーという仕事を「天職」として生きていくことに決めました。

20代からデザイナーとしてのキャリアをスタート。その後、デザイン事務所勤務を経て独立し、渋谷区の代々木八幡に事務所を構えました。ともに働く部下や取引先、家族にも恵まれ、書籍や雑誌を中心にさまざまなエディトリアルデザインを手掛けてきました。

そんな私にとって人生最大の試練となったのは2021年8月初旬のこと。このとき、世間は新型コロナウイルス禍の真っただ中でデルタ株が猛威を振るっていました。私は1度目のワクチンを打つべく、ワクチン接種会場へ。ところがその接種会場の検温で、なんと39度の熱があることが発覚しました。すぐにワクチン接種を中止して抗原検査を受け、「おそらく陽性であろう」と判断し、隔離生活を想定して自宅ではなく当時の事務所、代々木上原へと車を走らせました。

事務所に到着して週末までに納品しなければならない仕事を何とか納品したものの、体調は悪化。ついに救急車を呼び、自宅に近い多摩地方の病院まで搬送していただきました。

病院でパルスオキシメーター(血中酸素濃度計)で酸素濃度を計測すると、正常値の95%を大きく下回る80%台。仰向けで寝ると酸素濃度が下がる可能性があるからとうつ伏せ寝を続けましたが結局快復せずに肺気胸が発覚。手術が必要であると告げられました。

「しばらく寝てもらうことになります」と言われて期間を問えば「2週間」とのことでしたが、私が実際に目を覚ましたのは、それから2カ月以上後になってからのことでした。集中治療室で私が昏睡状態に陥っている間、家族は事務所を引き払って継続中の案件を整理し、部下はフリーランスとして働いていました。私は目覚めてからも長く混乱が続き、回復するまでには8カ月の入院期間を要しました。

退院して自宅に戻っても、在宅酸素療法の必要があった私は酸素ボンベを背負っての生活を余儀なくされ、食事をして排泄をして歯を磨くだけで精一杯です。
外に行くこともできず、最低限の生活以外に何もできなかった私に唯一できたこと。それがデザインの仕事でした。デスクとベッドの往復生活でも、オンラインの打ち合わせに出てMacでデザインすることはできます。デザイナーという仕事を選んでいたことは、不幸中の幸いだったんだ、と思いました。これしかなかった。神に与えられた仕事、「天職」のように感じたのです。

――これからもこの仕事をやっていくべきなんだ。

それは決断であり、覚悟でもありました。
復帰第1号の仕事は結婚情報誌ゼクシィの特集ページ。はじめはなかなか勘が戻らず歯痒い思いもしましたが、「退院しました」と関係各所に連絡したら、付き合いの長かった編集部はもちろん、数年来仕事をしていなかった得意先からも「小さい仕事ですが、急がないのでお願いできますか」とたくさん仕事をいただきました。心配してもらったことはありがたく、そしてこのご恩に報いていきたいと思いました。

結局デザインの仕事をすることが生きがいとなり、リハビリにもなり、回復にもつながった。この仕事をやっていて本当に良かった。そう改めて思うことのできた体験となりました。

(撮影/松蔭浩之)

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