森田社長ショート

2000年、大学を卒業した私は、他の会社で修業することも考えましたが、父との年齢差もあり、すぐに家業であるシャボン玉石けんに入社することを決めました。

シャボン玉石けんは、1910年に祖父が創業した会社で、生活雑貨を扱う会社としてスタートしました。拠点とする北九州市若松エリアは、当時石炭の積出港としてにぎわっていました。そのため、銭湯が多くあったこともあり、製品の中でも石けんがよく売れたことから、石けんに特化するようになりました。

その後、戦後の高度経済成長期に、石油や天然油脂を原料とした合成洗剤が世の中に普及し始めます。当社でも父の代で合成洗剤を取り扱い始め、業績は右肩上がりに伸びていきました。
しかし当時、父は夏場に汗をかくと湿疹ができるなど肌のトラブルに悩まされるようになったのですが、さまざまな療法を試しても良くならず、「自分は肌が弱いから仕方ない」と諦めていたそうです。

そんなとき、あるお客様から「無添加の石けんを作ってほしい」という依頼を受けます。当時は“無添加”という言葉もない時代でしたが、依頼を引き受け、先代社長である父が自ら工場に寝泊まりして試行錯誤を繰り返し、ようやく開発することができました。自分でも試しに使ってみたところ、薬を塗っても治らなかった湿疹が、1週間もしないうちに改善。調べてみると、合成洗剤は体に良くない成分が含まれていることがわかりました。ここで、父は悩みます。合成洗剤がいまの会社の業績を支えている。でも、体に良くないものを、世の中に出し続けていいのだろうか――。

悩んだ末、「体に悪いとわかった商品を売るわけにはいかない」と父は一大決心をして、合成洗剤の製造・販売をやめて、すべて無添加の石けんに切り替えました。ちょうど50年前、いまのようにまだ環境問題や「SDGs」などが注目されるずっと前の時代です。「無添加」を宣伝文句にしても、誰からも見向きもされませんでした。当時8000万円あった月商が、合成洗剤をやめた翌月には78万円にまで落ち込み、従業員は次々に辞めていき、結果として17年間も赤字が続くことになりました。

私が生まれたのは、父が無添加石けんに切り替えた2年後のことです。当時はまだ世間からの知名度も低く、正直、子どもの頃から家業を気恥ずかしく感じていました。私にとっては、「なんか特殊な石けんを作っている会社だ」という程度の認識しかなかったのです。

そんな当社の事業が世間に広く知られるきっかけとなったのが、1991年に父が執筆した『自然流「せっけん」読本」という書籍です。石けんと合成洗剤の違いを分かりやすく解説したこの書籍は異例のベストセラーとなり、石けんの良さを多くの方に知っていただくきっかけとなりました。
当時、父がワープロで原稿を書いていて、高校生だった私はその推敲前の原稿を裏紙として計算用紙などに使っていました。勉強の集中力が切れたときに、何気なく裏返して父の原稿を読んでみると、そこには無添加石けんに対する会社のこだわりが綴られていたのです。それを読むうちに、家業への理解が深まるとともに、自分の中の会社へのイメージも変わっていきました。

東京の大学に進学し、就職活動のタイミングで、他の会社で数年働くか、すぐに家業に入るか、悩みました。2代目、3代目社長は、数年間、他の会社で修業をしてから家業に入るパターンが多いので、自分も他の会社を見ておくべきかもしれないと考えましたが、私は父が45歳のときの子どもで、当時すでに父は70歳近くになっていました。 「父と少しでも長く働きたい」と考え、すぐに家業に入ることを決めました。
2000年にシャボン玉石けんに入社し、2007年に私が社長に就任した半年後に父は他界しました。結果的に、7年間父と一緒に働くことができ、その間に役員や社員との関係性を築くことができました。もし他の会社で数年働いてから入社していたら、ここまでスムーズに事業承継はできなかっただろうと思います。

私がシャボン玉石けんに入社してから24年、世の中は大きく変わりました。コロナ禍での衛生意識の高まりや、安心・安全志向、環境意識の向上などにより、おかげさまで業績は右肩上がりとなっています。しかし、無添加石けんに特化して50年が経ちますが、まだ合成洗剤と無添加石けんの違いは十分には知られていないと感じています。肌や地球環境にやさしい無添加石けんの普及に、これからも力を入れていきます。

(構成/尾越まり恵)

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