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19歳のとき、スウェーデンから来日。26歳で日本に帰化することを決意しました。

僕が生まれ育ったスウェーデンはスカンディナビア半島東部に位置する北欧の国です。日本の1.3倍ほどの面積に対して、人口は10分の1以下の1035万人しかいません。首都ストックホルムよりも南の地方都市で僕は10代までを過ごしました。
自然が豊かで環境はとても良かったものの、どこか閉鎖的で、子ども心に「もっと広い世界を見てみたい」「違う国の人とたくさん会って視野を広げたい」と考えていました。

――このままこの場所で大人になって仕事をして、落ち着いてしまうのは嫌だな……。

そんな僕が日本に興味を持ったのは、中学校の世界史の授業がきっかけでした。もともと歴史が好きだったのですが、日本独特の文化に強く惹かれたのです。島国で外から入ってくる文化が限られている中で、国内外の文化が独自の発展を遂げた唯一無二の国。例えば「鎖国」なんて、国境が地続きで接しているヨーロッパでは考えられないことです。
また、侍文化も独特です。戦国時代にはそれぞれ個性的な武将がいてワクワクしましたし、「武士道」の精神にも心惹かれました。

「もっと日本のことを知りたい!」と考えた僕は、インターネットで「英和辞書」を購入。苦手な文法は後回しにして、ひたすら単語を覚えていきました。
まずはひらがなとカタカナを覚えて、その音を頼りに少しずつ漢字を習得していく。日本語は難解でしたが、日本を知りたいという好奇心が強かったので、まったく苦にはなりませんでした。

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中学生のときに日本の歴史、特に侍文化に興味を持った


言葉がわかるようになると、日本のホームページの内容が何となく理解できるようになります。インターネットでひたすら検索して情報を入手するとともに、チャットでいろいろな日本人と会話をするようになりました。そこで知り合った神奈川県に住む男性の家にホームステイをさせてもらえることになり、高校1年生のときにはじめて日本に来ました。

日本の第一印象として、まず清潔感があって綺麗だな、と思いました。車で空港まで迎えに来てもらって高速道路に乗ったのですが、スウェーデンは国費で高速道路が運営されているため、料金所があることに驚きました。

日本に来て挑戦したかったことの1つが、部活に参加すること。近くの高校に片っ端から電話をかけ、承諾してくださった高校でアメフト部の練習に参加させてもらいました。試合には出られなかったものの、負けて悔し涙を流すメンバーを励ましたこともあります。日本の高校生たちと過ごした青春の日々は、僕の人生の中で大切な思い出になりました。

日本で自分のアイデンティティを見つけたい

3カ月間のホームステイを終えスウェーデンに帰国してからも、僕は日本語の勉強を続けました。いずれ日本で暮らしてみたいという思いで、その頃からは計画的に貯金もしていました。
高校を卒業し、19歳で今度は愛知県名古屋へ。英語講師の仕事を見つけて就労ビザでの日本移住でした。
実はこのときから、日本への「帰化」は頭の片隅にありました。でも、簡単に決断できるものではありません。日本に自分の居場所はあるのか、その答えを見つけたいと思っていました。

前回は短期滞在だったため、ここから日本での日常生活が始まりました。実際に暮らしてみても、外国人だから住みにくいと思ったことはありませんし、被害者意識は持ちたくなかったので、物珍しそうに扱われても気にしませんでした。
それよりも、自分が強く惹かれ求めていた国に来られた喜びのほうが勝っていました。世界が広がり、いままで知らなかったものとたくさん出会えた。街を歩くだけでも、スウェーデンにはないものがたくさんあります。犬山城、桶狭間……歴史的な場所を訪れると気分が上がりました。

帰化をするのであれば、日本で自分自身のアイデンティティを見つけたい。英語講師の仕事は日本に馴染む最初のきっかけとしてはとても良かったのですが、ライフワークとして、日本の伝統文化に関係する分野で若いうちに弟子入りしたいと考えました。

そんなときにたまたまアルバイト情報誌で見つけたのが、庭師の仕事です。もともと建築が好きで日本の社寺建設にも興味がありました。思い切って応募したところ、加藤造園にアルバイトとして雇ってもらえることになり、23歳から庭師としての修業が始まりました。
庭師の仕事は想像以上に重労働でした。どれだけ安全に気を配っても、木から落ちたり、熱中症で倒れたりと多くのトラブルを経験。それでも、すごく楽しかったんです。「今日、仕事に行きたくないな」と思う日が1日もない。そんな感覚は、生まれてはじめてのことでした。
石の配置の仕方、灯篭の置き方、枝の切り方、1つ1つがアートで、毎日仕事に行くのが楽しく、親方が作った庭を見るとワクワクしました。
自分が求めていた「和の美」に触れられる仕事。これは自分の天職だ、と思いました。

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23歳から庭師の親方に弟子入り。造園の技術を学んだ(写真提供/ワイエムエヌ)


日本人となり、この国で生きていく

日本で生きる自分のアイデンティティとして庭師の仕事に出会えたこと。それが、日本に帰化する覚悟につながりました。庭師としての居場所がこの国にある。いつまでもこの国で日本の庭に関わって生きていきたい。そう考え、26歳のときに帰化することを決めました。

永住権を取得すれば、元の国籍を持ったまま、ビザの心配をせずに日本に住み続けることができます。でも、これから一生を日本で生きていく覚悟として僕は「帰化」を選びました。捨てるものは大きいかもしれない。でも、帰化でなければ嫌だと思いました。

帰化の手続きは、簡単ではありません。それだけ重いことだからです。まず、両親の承諾が必要です。子どもの頃から一度決めたら貫く性格ですし、スウェーデンは自由主義の国なので、両親は僕の意志を尊重してくれました。ちなみに、僕は6人兄弟の長男ですが、スウェーデンには日本のように「長男だから家督を継ぐべき」といった考え方はありません。
日本語のテストや論文など大量の書類を提出して、申請だけで1年以上かかりました。帰化の許可が下りたら、役所に行き日本国籍を選ぶための国籍選択届を提出します。そこで日本国籍を得るのと同時に、日本で生きていくための名前に改名します。
ここで僕は元のビョーク・セバスチャンから、村雨辰剛(むらさめたつまさ)になりました。村雨は、加藤造園の親方のお父さんが好きだった歴史小説家の村雨退二郎さんからいただき、辰年生まれの辰、剛は親方の名前からいただきました。
スウェーデンの国籍も生まれ持った名前も失いましたが、そこに対してセンチメンタルな気持ちはありませんでした。むしろ戦国武将が元服や功績を上げることで改名したように、自分自身も人生の一区切りとして、改名したことで生まれ変わったような気持ちでした。

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26歳で日本に帰化し日本国籍を取得した


日本国籍を得た瞬間は、大きな達成感がありました。「これまでの人生はこのためにあったんだ」とさえ思いました。そして、喜びと安心感。10年近く日本に住んでいても、それまではどこか「日本にお邪魔させてもらっている」という感覚がありました。一生ここで暮らすと決めているのに、ずっとよそ者のまま……。
僕のことを知らない人から見たら、僕はいまでも外国人に見えるでしょう。でも、僕自身の問題として、日本国籍を手に入れて、ここがホームになった。ビザを気にする必要もない。選挙権もある。帰化をして気持ちが楽になりましたし、肩の荷が少し下りたような感覚がありました。

演技も庭師も、さらに技術を磨きたい

5年間、加藤造園で修業したのち、2017年からは拠点を東京に移して芸能活動も始めました。
NHKの『みんなで筋肉体操』という番組で少し皆さんに知ってもらえるようになり、2021年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』で上白石萌音さん演じる安子をアメリカに連れていくキーパーソンを演じたことで、街を歩くと役名の「ロバート!」と声をかけられるようになりました。

演技は奥が深く、面白い。監督から言われたことを受け止め、演じていくうちに「こういうことか!」と理解が深まっていく。これからもいろいろな役に挑戦してみたいと思っています。
アイデンティティである庭師の仕事はもちろんいまも続けています。毎年必ず呼んでくださるお客様もいます。役者と庭師の仕事は「表現する」ことが共通しています。

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いまでも「和」の文化への興味は尽きない


日本に帰化して、もうすぐ10年になります。もちろん19歳まで過ごしたスウェーデン人としてのルーツが僕の中からなくなることはありません。その上に、日本人として過ごした時間と経験が積み重なっている感覚です。
芝居も庭師も、もっともっと技術を向上させ、磨いていきたい。日本には多くの伝統文化があり、それらはつながっています。今後は茶道や華道など、より多くの日本文化に触れ、それを庭師の仕事に生かしていきたいと思っています。

(文/尾越まり恵、表記のない写真すべて/齋藤海月)

村雨辰剛(むらさめ・たつまさ)
俳優/庭師
1988年7月、スウェーデン生まれ。幼い頃から日本に興味を持ち、日本語を勉強。日本で日本人と暮らしたいという夢を持ち、高校卒業後に来日。語学講師として働き、23歳で日本の伝統文化に関わる仕事がしたいと造園業に飛び込み、見習いから庭師になる。26歳で念願の帰化が実現し、日本国籍を取得、村雨辰剛に改名する。
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