
父が自衛官だったため転勤が多く、埼玉で生まれた後、名古屋、福岡、佐賀へと移り住みました。アートが好きで、高校時代は美術部で絵を描いていました。北九州市立大学に進学し、美術部や写真部で活動。大学生活は楽しかったのですが、中学・高校が田舎だったので、「東京で暮らしたい」という思いを強く持っていました。
夏休みに東京に遊びに行ったとき、高校時代の友人の家に泊めてもらったんです。その友人は高校を卒業後すぐに上京し、舞台俳優として活動していました。「劇団の稽古に来ない?」と誘われて、稽古に参加してみると楽しく、「俳優になりたい!」と考えるようになりました。
大学も文学部で、もともと小説などの物語が好きだったのですが、俳優は脚本という物語を読み込み、それを演技によって表現する仕事です。役を通していろいろな人生を味わえることも魅力でした。
卒業後、就職せずに東京で俳優活動に挑戦したいと考えたのですが、浪人してまで大学に行かせてくれた親に申し訳ない。そこで、東京の大学院の試験を受け、上京して好きな文学の研究と俳優という二足の草鞋(わらじ)で生活することを決めました。
俳優になるには、オーディションを受けて芸能事務所か劇団に所属することが一般的な道筋となります。まずは友人のつてで小劇場の舞台に立たせてもらいました。小劇場は人間関係も濃く、舞台を完成させていく過程は、みんなで1つの旅をしているような感覚がありました。
大学院を修了後、本格的に俳優活動をする中で、オーディションに合格し文学座の西川信廣さんが演出する舞台に立つ機会がありました。共演には文学座の椎原克知さんもいました。文学座は、1937年に結成されて以来、江守徹さん、角野卓造さんなど、数多くの俳優を輩出してきた日本を代表する劇団です。共演したときに俳優の演技や演出のレベルの高さに驚き、「文学座で真剣に演技の勉強をしたい!」と考えるようになりました。
入団テストは筆記試験、演技の実技試験と面接があり、私は何とか夜間部に入団することができました。1年間、研究生として18時から21時45分まで、週6日のレッスン、23時から朝8時までアルバイトをしていました。
1年後に研修科に合格し、そこからの2年間は、今度は朝の10時から22時まで舞台を作ります。その後のステップとして準座員、座員となっていくシステムですが、私は研修科までで、残念ながら準座員に進むことはできませんでした。
文学座を離れた後は、芸能事務所に所属しながら声優、舞台、映像など、どんな仕事にも挑戦しました。仕事はすべて、オーディションで勝ち取るしかありません。最終的に選ばれるのは1人なので、落ちる可能性が高いです。ただ、「クライアントさんが選ぶ最終候補の3人までには残る」ことが最低限の仕事だと思い、ベストを尽くしていました。
スタジオジブリ作品の声優をしたり、NHKの大河ドラマに出演したり、佐賀弁の方言指導をしたり、企業紹介映像や再現VTRには合わせて100本以上出演しました。1つひとつの現場にせいいっぱい力を注ぎ、目に留まって評価してもらえたらまた声をかけてもらえる。そんな、楽しくも緊張感のある毎日でした。
俳優活動を10年ほど続けた頃、転機が訪れます。コロナ禍で劇場が休みとなり、俳優活動がストップしたのです。同時に、YouTubeやSNSでの配信が盛り上がり、映像演出や制作に興味を持つようになりました。映像演出にお声がけいただいたこともあり2022年、俳優活動は休止し、動画制作者として活動することを決めました。
いまは企業から依頼を受けてTikTokやインスタグラムなどのPR動画を制作しています。台本を書き、演出を考え、配役をする。制作した動画の中には100万回再生の動画も多くあります。「採用につなげたい」「ブランド力を高めたい」「製品の認知度を上げたい」など、企業のニーズを聞いているうちに、SNS運用やコンサルティングへと仕事の幅が広がっていきました。
今後も、企業から受託し映像制作を続けながら、自分で企画した動画も制作していきたいと考えています。
大学を卒業して、僕は東京で俳優を目指すという選択をしました。結果としていまは俳優業からは離れましたが、それぞれの場所でたくさんの方に助けていただき、ご縁がつながっていまがあります。この生き方を認め、支えてくれた家族や周囲の人たちに感謝しています。
(構成/尾越まり恵)永尾斎 Instagram










