白滝さんショート

2020年3月、約30年間過ごした韓国から日本に帰国することを決めました。

20歳のときに母に末期がんが見つかり、2年後に他界。若さゆえの多感な時期でもあり、当時の私は日本での生きづらさを感じていました。母の死を機にさらに人の裏表が見えるようになり、「こんな建前ばかりの国は嫌だ!」と、日本から脱出することを決意します。

いくつか候補を考えた中で、移住先として決めたのは韓国でした。母の病気がわかったあと、思い出を作ろうとふたりでソウルに行ったことがありました。そのときにたまたま路上で激しく言い争いをしている韓国人を見て、大きな衝撃を受けたのです。
言いたいことを言い、怒りたいときに怒って、泣きたいときに泣く。

――こうやって生きてもいいんだ!

同じアジアで外見は似ていますが、文化は全然違う。26歳の私は、韓国に自由さを感じたのです。

ソウルで暮らし、語学学校で韓国語の勉強を始めました。1990年代初頭、民主化運動のムードがまだ抜けきれず、いまよりずっと治安も悪かった。それでも、私はすぐに韓国を好きになりました。
現地で知り合った同級生の韓国人男性と28歳で国際結婚し、夫の地元である地方都市の大邱(テグ)で暮らし始めます。夫は起業し、私はそれを応援しながら日本語を教える仕事をしていました、ところが、32歳で夫の会社が倒産。小さな子どもを連れて、逃げるように日本に戻って来ました。

数年後に夫は日本で再度起業し、事業は軌道に乗りました。しかし38歳で夫の母が病気になり、仕事中心の夫を日本に残して、私が子どもたちと韓国に戻り、6年にわたり義母の介護をしました。この間、韓国の歴史文化を深く学び、書いたエッセイが自治体主催の公募展で日本人初の優秀賞を受賞。このときには、韓国に骨をうずめようと思っていました。

しかし、57歳ですでに関係が冷めきっていた夫と離婚し、状況が一変します。
このまま韓国で暮らすか、日本に帰るか――。
子どもも日本の大学に進学した。私は長い韓国生活を通し客観的に日本を見て、「自分は日本人である」と強く感じた。あれだけ嫌いだった日本が、愛おしく感じるようになったのです。私はこの先の人生を日本で暮らすことを決めました。

ところが、2020年3月、帰国を予定していた数日前に大邱の教会で新型コロナの大規模なクラスターが起き、中国・武漢に次いで世界で2番目に大邱の街はロックダウンすることに。日本も海外からの入国制限を検討しており、タイミングを逃すと日本に入国できなくなるかもしれない。予定を早め、私は急いで家を出ました。大邱の街中で歩いている人は誰一人いませんでした。釜山行きのバスに乗り、危機一髪で日本に入国することができたのです。

日本で生活しながらいま感じるのは、日本はとても安全で、思いやりにあふれる国だということです。
韓国と日本、どちらがいい、悪いではなく、それぞれにいい部分と悪い部分がある。私はどちらの国も好きで、いまは母国が2つあると思っています。
26歳で日本を飛び出したときから、私の人生は大きく変わりました。あのとき、行動を起こしたから得られたものが数多くあります。
もしいまの場所が生きづらいと感じている人がいたら、勇気を出して飛び出してほしい。失敗しても、きっと大丈夫です。どんな大失敗をしても、それが貴重な経験だったと思えるときが必ずくるはずです。

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