2020年、落語家として二ツ目に昇進した私は、地元福岡県の北九州市を拠点にして活動することを決めました。
中学を卒業後、高校に進学せずペンキ屋の塗装やホストの仕事をしていました。10代の頃は、いまが楽しければそれでよく、将来のことなんて何も考えていませんでした。
そんな自分も、成人式を終え、はじめて「この先どうやって生きていこう」と考えました。塗装もホストも一生続けられる仕事ではない。北九州は好きだけど、もっと他の世界も見てみたい。
そう考え、人生で一度は東京に住み、お金を稼いでみよう!と思い立ちました。3年間、お金を貯めて23歳で上京。ひとまず手っ取り早く稼げるキャバクラの黒服の仕事を始めました。
そんなとき、たまたま新宿を歩いていると、提灯がズラっと並んだ古い建物が目に止まりました。それが東京にある寄席の1つ、「新宿末廣亭(すえひろてい)」でした。気になってふらっと中に入り、はじめて落語を見ました。「笑点」のように大喜利が始まるのかと思ったら、高齢でヨボヨボの落語家さんが、ボソボソと喋っている。でも、だんだん場が温まり、大爆笑が起こるんです。それを見て「落語ってすごいな」と思いました。
次に登場したのが、橘家文蔵師匠でした。強面で「なんか北九州っぽい人だな!」なんて思いながら(笑)落語を聞いていたのですが、ものすごく面白かった。
それから1カ月後、当時住んでいた中野の小劇場の前を通りかかったら、橘家文蔵師匠の独演会のチラシが貼ってあったんです。
「あ、あのときの落語家さんだ!」と思って独演会を見ると、やっぱりすごく面白く、そこではじめて落語家になりたい!と思いました。
独演会が終わった足で本屋に行き、落語の本を見てみると、落語家になるには、どうやら弟子入りが必要らしい。そうか、と思い、文蔵師匠を出待ちして「弟子にしてください!」と伝えました。
ものすごく緊張していたので、そのときの記憶は曖昧ですが、「親の死に目に遇えない商売だからな。それでもいいなら家の出入りをしてもいい」と言われたことを覚えています。
「頑張ります!」と伝えて、修業が始まりました。弟子は師匠の家の掃除、炊事、カバン持ち、何でもやります。休みなんてありません。
大変でしたが、まったく知らない世界だったので、楽しさのほうが勝っていました。日々覚えることがたくさんあり、「辞めたい」なんて考える暇もありませんでした。
5年半の前座修業を経て、2020年、33歳で二ツ目に昇進。
師匠にお礼を伝えに行くと、「東京で活動するのもいいけど、北九州に戻って地元で落語を広める活動をするのも面白いんじゃないか。決めるのはおまえだけどな」と言われました。
そんな発想があるのか!と驚き、調べてみると、東京と大阪以外の地方で活動しているプロの落語家は1人もいませんでした。二ツ目になると周囲からのお膳立てはなくなるので、自分で仕事を取り、稼いでいかなければなりません。1000人いる落語家の中で、自分のカラーを出していくには、地方での活動は確かに面白いかもしれない、やってみる価値はあるなと思い、北九州で活動することを決めました。
ただ、北九州には寄席がありません。そこで、トラックを改造して、荷台を演芸場にした落語カーを作り、移動しながら落語を披露する方法を思いつきました。
そのほか、地元の施設で落語会を開いたり、地域の小学校を訪問したりして、落語を広める活動をしています。それまで生で落語を聞いたことのない人が、落語を聞いて喜んでくださる姿を見ると嬉しいですね。
北九州を拠点に活動するという決断は、大正解でした。これからも、北九州で落語カーを走らせながら、落語の文化を広めていきたいと思います。
(構成/尾越まり恵)
中学を卒業後、高校に進学せずペンキ屋の塗装やホストの仕事をしていました。10代の頃は、いまが楽しければそれでよく、将来のことなんて何も考えていませんでした。
そんな自分も、成人式を終え、はじめて「この先どうやって生きていこう」と考えました。塗装もホストも一生続けられる仕事ではない。北九州は好きだけど、もっと他の世界も見てみたい。
そう考え、人生で一度は東京に住み、お金を稼いでみよう!と思い立ちました。3年間、お金を貯めて23歳で上京。ひとまず手っ取り早く稼げるキャバクラの黒服の仕事を始めました。
そんなとき、たまたま新宿を歩いていると、提灯がズラっと並んだ古い建物が目に止まりました。それが東京にある寄席の1つ、「新宿末廣亭(すえひろてい)」でした。気になってふらっと中に入り、はじめて落語を見ました。「笑点」のように大喜利が始まるのかと思ったら、高齢でヨボヨボの落語家さんが、ボソボソと喋っている。でも、だんだん場が温まり、大爆笑が起こるんです。それを見て「落語ってすごいな」と思いました。
次に登場したのが、橘家文蔵師匠でした。強面で「なんか北九州っぽい人だな!」なんて思いながら(笑)落語を聞いていたのですが、ものすごく面白かった。
それから1カ月後、当時住んでいた中野の小劇場の前を通りかかったら、橘家文蔵師匠の独演会のチラシが貼ってあったんです。
「あ、あのときの落語家さんだ!」と思って独演会を見ると、やっぱりすごく面白く、そこではじめて落語家になりたい!と思いました。
独演会が終わった足で本屋に行き、落語の本を見てみると、落語家になるには、どうやら弟子入りが必要らしい。そうか、と思い、文蔵師匠を出待ちして「弟子にしてください!」と伝えました。
ものすごく緊張していたので、そのときの記憶は曖昧ですが、「親の死に目に遇えない商売だからな。それでもいいなら家の出入りをしてもいい」と言われたことを覚えています。
「頑張ります!」と伝えて、修業が始まりました。弟子は師匠の家の掃除、炊事、カバン持ち、何でもやります。休みなんてありません。
大変でしたが、まったく知らない世界だったので、楽しさのほうが勝っていました。日々覚えることがたくさんあり、「辞めたい」なんて考える暇もありませんでした。
5年半の前座修業を経て、2020年、33歳で二ツ目に昇進。
師匠にお礼を伝えに行くと、「東京で活動するのもいいけど、北九州に戻って地元で落語を広める活動をするのも面白いんじゃないか。決めるのはおまえだけどな」と言われました。
そんな発想があるのか!と驚き、調べてみると、東京と大阪以外の地方で活動しているプロの落語家は1人もいませんでした。二ツ目になると周囲からのお膳立てはなくなるので、自分で仕事を取り、稼いでいかなければなりません。1000人いる落語家の中で、自分のカラーを出していくには、地方での活動は確かに面白いかもしれない、やってみる価値はあるなと思い、北九州で活動することを決めました。
ただ、北九州には寄席がありません。そこで、トラックを改造して、荷台を演芸場にした落語カーを作り、移動しながら落語を披露する方法を思いつきました。
そのほか、地元の施設で落語会を開いたり、地域の小学校を訪問したりして、落語を広める活動をしています。それまで生で落語を聞いたことのない人が、落語を聞いて喜んでくださる姿を見ると嬉しいですね。
北九州を拠点に活動するという決断は、大正解でした。これからも、北九州で落語カーを走らせながら、落語の文化を広めていきたいと思います。
(構成/尾越まり恵)
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