2012年、子どもが3歳のときに競輪選手になりました。
幼い頃から活発で、運動が大好き。男の子たちに混ざって泥だらけになって遊んでいました。高校受験のときに「みんなと同じ進路はいやだなぁ」と思い、地元・福岡県北九州市の高等専門学校に進学。仲間と一緒にロボット作りに夢中になり、コンテストでは優勝も経験。充実した高専生活を送りました。
卒業後は京都の染色会社に就職。冷たい水を使う作業なので、冬は手があかぎれになりましたが、真っ白の布が染色によって美しい着物になっていく工程を見られるのが楽しく、やりがいを感じていました。
染色会社に勤めているときに、通勤に便利だからとロードバイクを購入。通勤時間は短い方がいいから、できるだけスピードが出る自転車が良かったんです。すると、お店の人が「この自転車を買うならレースに出なよ」と勧めてくださり、レースに出場したところ優勝しました。翌年から女子の実業団チームができることになり、登録選手になる予定だったのですが、妊娠が発覚。自転車をやめて子どもを出産しました。
それでもやっぱり自転車が好きだったので、出産後数カ月でレースに復帰。子どもが小さいうちは、趣味で続けるしかないと思っていたのですが、2012年に女子競輪が48年ぶりに復活することになり、「ガールズケイリン1期生募集」の広告を見つけてしまったんです。夫に「1回だけ……記念に受けさせてもらえないかな」と相談してみたところ、「いいよ、気晴らしに行ってきなよ」と快諾してくれました。
ロードバイクには乗っていましたが、競輪用の自転車には乗ったことがありません。夫も私も、受かるとは思っていなかったのです。
試験が終わり、受けたことも忘れて生活していたある日、インターネットで発表を見た知人から「受かってましたよ!」と聞き、自分の合格を知りました。
―――うそーー、なんで??
嬉しかったのですが、「子どもはまだ2歳だし、どうしよう?」と、一気に現実の問題がのしかかってきました。でも、夫のお母様が「やってみなくちゃわからないから、挑戦してみたら?」と背中を押してくれ、競輪選手に挑戦することを決めました。
デビュー前の1年間、静岡県の競輪学校でトレーニングを受けることになり、実家の両親に息子を預かってもらいました。4人部屋の寮生活でしたが、1期生の33人はみんな仲良く、私自身は集団生活は平気だったので、「毎日好きな自転車に乗れて、家事からも解放されて最高じゃん!」と思いながら生活していました。
1年後、神奈川県の平塚でガールズケイリンが開幕し、それが私のデビュー戦となりました。多くの観客に見守られ、こんなに注目されてスタートを切られるのは本当にありがたいと思いました。
デビュー後、たくさんのファンの方に応援してもらいました。私のニックネームは「森ママ」で、ママであることが1つの売りにもなっていました。
「ママでも競輪頑張ります。応援よろしくお願いします」
取材を受けたら必ずそう言って締めていました。
7年の選手生活を経て、2019年に引退。前年、韓国の平昌(ピョンチャン)で開催された冬季オリンピックを見た息子が、突然「スピードスケートをやりたい」と言い、チームに所属して練習にのめり込んでいきました。息子が真剣に取り組む姿を見て、これまで十分に自分の好きなことに挑戦させてもらったので、今度は息子を応援したいと考え、引退を決意しました。
競輪選手になっていなければ、出会えていない人がたくさんいます。まだ幼い子どもを抱えていた私が競輪の楽しさを味わえたのは、母や夫をはじめ、周囲の支えのおかげです。何事も、やってみないとわからない。競輪にチャレンジして良かったと思っています。
(構成/尾越まり恵)
幼い頃から活発で、運動が大好き。男の子たちに混ざって泥だらけになって遊んでいました。高校受験のときに「みんなと同じ進路はいやだなぁ」と思い、地元・福岡県北九州市の高等専門学校に進学。仲間と一緒にロボット作りに夢中になり、コンテストでは優勝も経験。充実した高専生活を送りました。
卒業後は京都の染色会社に就職。冷たい水を使う作業なので、冬は手があかぎれになりましたが、真っ白の布が染色によって美しい着物になっていく工程を見られるのが楽しく、やりがいを感じていました。
染色会社に勤めているときに、通勤に便利だからとロードバイクを購入。通勤時間は短い方がいいから、できるだけスピードが出る自転車が良かったんです。すると、お店の人が「この自転車を買うならレースに出なよ」と勧めてくださり、レースに出場したところ優勝しました。翌年から女子の実業団チームができることになり、登録選手になる予定だったのですが、妊娠が発覚。自転車をやめて子どもを出産しました。
それでもやっぱり自転車が好きだったので、出産後数カ月でレースに復帰。子どもが小さいうちは、趣味で続けるしかないと思っていたのですが、2012年に女子競輪が48年ぶりに復活することになり、「ガールズケイリン1期生募集」の広告を見つけてしまったんです。夫に「1回だけ……記念に受けさせてもらえないかな」と相談してみたところ、「いいよ、気晴らしに行ってきなよ」と快諾してくれました。
ロードバイクには乗っていましたが、競輪用の自転車には乗ったことがありません。夫も私も、受かるとは思っていなかったのです。
試験が終わり、受けたことも忘れて生活していたある日、インターネットで発表を見た知人から「受かってましたよ!」と聞き、自分の合格を知りました。
―――うそーー、なんで??
嬉しかったのですが、「子どもはまだ2歳だし、どうしよう?」と、一気に現実の問題がのしかかってきました。でも、夫のお母様が「やってみなくちゃわからないから、挑戦してみたら?」と背中を押してくれ、競輪選手に挑戦することを決めました。
デビュー前の1年間、静岡県の競輪学校でトレーニングを受けることになり、実家の両親に息子を預かってもらいました。4人部屋の寮生活でしたが、1期生の33人はみんな仲良く、私自身は集団生活は平気だったので、「毎日好きな自転車に乗れて、家事からも解放されて最高じゃん!」と思いながら生活していました。
1年後、神奈川県の平塚でガールズケイリンが開幕し、それが私のデビュー戦となりました。多くの観客に見守られ、こんなに注目されてスタートを切られるのは本当にありがたいと思いました。
デビュー後、たくさんのファンの方に応援してもらいました。私のニックネームは「森ママ」で、ママであることが1つの売りにもなっていました。
「ママでも競輪頑張ります。応援よろしくお願いします」
取材を受けたら必ずそう言って締めていました。
7年の選手生活を経て、2019年に引退。前年、韓国の平昌(ピョンチャン)で開催された冬季オリンピックを見た息子が、突然「スピードスケートをやりたい」と言い、チームに所属して練習にのめり込んでいきました。息子が真剣に取り組む姿を見て、これまで十分に自分の好きなことに挑戦させてもらったので、今度は息子を応援したいと考え、引退を決意しました。
競輪選手になっていなければ、出会えていない人がたくさんいます。まだ幼い子どもを抱えていた私が競輪の楽しさを味わえたのは、母や夫をはじめ、周囲の支えのおかげです。何事も、やってみないとわからない。競輪にチャレンジして良かったと思っています。
(構成/尾越まり恵)