鷹野さんショート

リーマン・ショックの影響で、当時勤めていた日本の会社から契約終了を言い渡されました。いわゆる「クビ」です。でもこの経験が、自分の心を見つめ直させ、私を映像翻訳の道へと導いてくれた大切なきっかけとなりました。

外国語にはじめて触れたのは、小学校4年生のとき。東京タワーで、外国人観光客と英語で話している父の姿を見ました。
「すごい! 私も外国人と話せるようになりたい!」
そしてすぐにNHKラジオ講座の基礎英語を聞き始めました。日本語とは違う興味深い音の響き、新しい世界が広がっていくワクワク感、これが私の語学の原点です。
高1の夏休みに1カ月間アメリカでホームステイを、大学時代には学外の英語学校に3年間通学。しかし私の英語力はそこそこのレベルにしか上達しませんでした。英語を使って何をしたいのか、「その先」が見えていなかったからかもしれません。

大学卒業を目前に控えても自分が何をやりたいのかわからないまま、卒業旅行でタイへ。カンチャナブリという街で同じ宿に泊まっていた同世代の韓国人たちと意気投合。これが私と韓国という国の出会いでした。
社会人1年目の夏に、韓国へ行ってみようと思い立ち、タイで知り合った韓国人に勇気を出して電話をかけてみました。スマートフォンのない時代。電話が最も手っ取り早い連絡手段でした。

「Do you remember me?(私のこと、覚えてる?)」

こうしてはじめて韓国に降り立った私を、彼らは大いに歓迎してくれました。田舎の実家に泊まらせてもらったり、1泊2日の登山に出かけたり、明け方まで飲んで語り明かしたり……。想像もしていなかったディープな韓国。
帰国した私は、「彼らと韓国語でコミュニケーションをとりたい」と考えるようになります。この「人とのつながり」や「語学のその先への思い」が、英語にはなかった韓国語習得の強いモチベーションになっていたのだと思います。

そこで仕事を辞めて、韓国語を学ぶために韓国外国語大学の語学研修院へ留学することを決意。まだ韓流の波が押し寄せていない時代、26歳のときでした。1年で帰国する予定でしたが、韓国語の実力に物足りなさを感じ、梨花女子大学通訳翻訳大学院の翻訳学科へ進学しました。大学院卒業後もまだまだ自分の韓国語にも日本語にも自信を持てず、翻訳学科で学んだにもかかわらず(あるいは学んだから、かもしれませんが)「翻訳は苦手」と、長い間、翻訳の世界から逃げていたように思います。

その後、映像翻訳の仕事に通じる大きな出会いがありました。韓国の映画制作会社に就職して釜山映画祭やカンヌ映画祭のフィルム・マーケット(映画の権利を売買する見本市)を経験させてもらったこと、そして韓国人映画監督の通訳として映画の制作現場を経験させてもらったことです。

――「韓国語」と「映像」に関わる仕事がしたい。

会社から契約終了を言い渡されたことをきっかけに、やっと自分が何をしていたら人生を楽しめるのかということに気づき、映像翻訳の道へ進むことを決断しました。すでに36歳になっていました。

1秒のセリフに4文字の日本語を当てはめていく字幕翻訳。何年やっても果てしなく苦しい作業です。自分で選んだ道なのに、いろいろな意味で苦しくて「やめよう」と挫折しかけたこともありました。ですが、私の仕事が影響しているのかどうかはわかりませんが、気が付くと父は韓国時代劇のファンになり、母はK-POP歌手のファンクラブに入会してしまうほど、2人とも韓国に興味を持つようになっていました。こんなふうに映像翻訳という仕事を通じて、ほんの少しでも日韓の相互理解を深めるお手伝いができているのだとしたら……そこにこの仕事のやりがいを見いだせるのではないかと考えています。

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